21世紀の東京女学館をめざして
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女子教育奨励会の発足

女子教育奨励会とは,「日本の貴婦人に欧米諸国の貴婦人と同等なる佳良の教化及び家事の訓練を受け」させることを目的に1887(明治20)年設立されました。この女子教育奨励会は,時の総理大臣・伊藤博文を創立委員長として組織され,委員には,澁澤榮一,岩崎彌之助,外山正一など財界・官界・学界・宮中顧問・在日外国人を中心に,当時の日本の著名人が含まれていました。

この女子教育奨励会が発足したのは,当時の日本の女子教育が西欧諸国と比べて,あまりにも遅れていたことに起因します。当時,日本の女子教育は,ようやく外国系のミッションや一部の開明的な人たちによって初等教育の道が開かれつつありましたが,まだ女子を教育することは無益であるとか,女子の体力では勉学に耐えられないといったような考え方が支配的でした。

そうした中で,日本人最初の帝国大学教授である外山正一は,「女子の教養が不足し,人との交際に馴れていないようでは西洋の女性に比べて日本の女性は見劣りがする。したがって,女子にもっと高度な教育をしなければならない」と考えました。一方,伊藤博文をはじめとする当時の政府も,西欧諸国に日本は文明国であることを示す必要があるとして,女子教育の必要性を認識していました。さらに,澁澤榮一ら実業界の面々や政界・財界の人々も外山や政府の示す考えに賛同し,ここに女子教育奨励会が発足したのでした。

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開校(明治21年)

 東京女学館として開校したのは,1888(明治21)年です。最初の東京女学館の校舎は,現在の千代田区永田町(衆議院議長公邸)にありました。当時,宮内庁所管の建物であった旧松平出羽守邸(でわのかみてい),俗に雲洲屋敷(うんしゅうやしき)と呼ばれた建物を貸与され,同年9月11日に開校しました。

 その頃,女学館に入学できたのは11歳からで,先生はイギリスから招いた7名の女性宣教師でした。そのため,授業のほとんどは英語で行われていました。それでも,生徒はよく学び,その語学力は見事だったといいます。
雲州屋敷

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虎の門時代(明治23年〜大正14年)


 開校して2年後の1890(明治23)年,東京女学館は永田町から虎ノ門へと移転しま虎ノ門校舎した。欧米諸国に劣らぬ教育といっても,元大名屋敷では何かと不便でしたので,「虎の門」の工部大学校跡の生徒館を借用し,より充実した教育を行おうと考えました。東京女学館が一時「虎の門女学校」と呼ばれていたのは,こういう経緯によるものです。

 虎の門に移った東京女学館は,明治24年7月,第1回の卒業式を行いました。卒業生はわずか8名でしたが,来賓は300名以上という盛大な式典となりました。この時の卒業式は予科(後の中等科)の卒業生で,その後本科(後の高等科)まで進んだ者は僅か1名でした。この傾向は,この後も大きく変わりませんでした。当時,女子にとっては中等教育でさえ高度のものと考えられていたので,なかなか開校当初に構想していた高等教育を行うことは難しかったのです。

 虎の門に移ってから4年後の明治27年,政府から女学館に小学校を設置することが認められ東京女学館小学校が誕生しました。ところが,児童を募集したにもかかわらず,思うように集まらなかったために,誕生後わずか5年で廃止されてしまいました。国の期待に反して,当時の日本社会ではまだまだ女子教育の必要性は国民には理解されていなかったといえます。

 ところで,虎の門時代の教育は,女学館の教育理念が「西洋の貴婦人と同等の教育を行う」ことを掲げていたわりには良妻賢母教育が中心でした。女学館の教育は,やがて人の妻となり,母となり,家庭の中心となる女性を育てることに主眼があって,必ずしも男女平等とか女性の自立を目指すものではありませんでした。そのような教育は,それなりに当時の時代の要請に応えるものではありましたが,だからといって決して時代に迎合するようなものではなく,どこまでも女性は良妻賢母,家庭の中心になるべきものとされました。

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虎ノ門から羽沢へ(大正14年〜昭和21年)


 東京女学館は虎の門時代の教育により,女子教育機関としての存在を確立し,社羽沢(広尾)校舎 旧本館会からも一目置かれるようになってきました。その成果もあって,校舎を新しく建てようとする動きが出てきました。というのも,虎の門の校舎は借用のものであったので,新たに校地を求め自前の校舎を建てることが当時の女学館関係者の念願だったからです。かくして,大正12年渋谷羽沢(現在の広尾)に移転する運びとなりました。

 ところが,同年9月に発生した関東大震災により,それまで使用していた虎の門校舎が焼失し,灰塵に帰してしまいました。幸い,直ぐに羽沢に仮校舎を建てたために,教育上の混乱は少なくて済みましたが,女学館の草創期を象徴する虎の門校舎はなくなり,ここに虎の門時代は終わりを告げたのです。

 昭和3年に女学館の羽沢校舎の竣工が行われ,同時に小学校(当時は小学部)も開校しました。また,昭和5年には女子教育奨励会を解散し,東京女学館は財団法人となりました。この間,女学館の発展のために尽力したのは,第5代館長澁澤榮一でした。澁澤榮一は,翌昭和6年に92歳で亡くなりましたが,女学館の創立以前から震災後の再建に至るまで,終始女学館のために尽力し,大きな足跡を残した人物でした。その後,次第に社会は戦争へと進み,明治以来誇示してきた女子教育は変節を遂げ,敗戦を迎えるまで社会が混乱した中で運営されていきました。

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新しい時代(昭和22年〜現在)


 昭和21年,敗戦とともに平和の時代が到来し,教育基本法と6・3・3制の実施という新しい教育が示さ現在の広尾校舎れました。昭和22年,沢田源一館長のもと,東京女学館の学校法人への改組,中学校・高等学校の開設,校地の拡張,校舎の増築,軽井沢学習寮の新設などが次々と行われました。さらに,昭和31年には短期大学が設置され,ここに女学館が創立当時からの目標であった高度な女子教育を実現する環境が整いました。

 その後,宮地治邦館長のときに短大用に新たに町田キャンパスを求め,新校舎を建設して教育の一層の充実を図りました。また,有光館長在任中の昭和63年に女学館創立100周年の記念式典が盛大に行われ,日本において数少ない伝統ある女子教育機関としての地位を示すこととなりました。

 平成6年から平成15年末にわたって、第12代館長に渋沢栄一の曾孫である渋沢雅英が在任し、21世紀をめざす女学館のために、様々な教育改革を行ってきました。その中には、小学校から始まる一貫教育の推進、中学・高校の教育目標の策定、入学試験制度の改革、国際化に対応した海外との交流プログラムの推進、国際教養学部からなる東京女学館大学の開学、中学・高校の国際学級の開設などがあげられます。
平成16年1月、第13代館長に麻生誠が就任しました。創立以来110余年にわたる東京女学館の伝統をうけつぎ、女性の国際化と社会参加の推進という建学の目標に沿って、諸外国との連携のもとに、女性の自己実現を支援し、リーダーシップの育成に向けて、女学館はさらに新しく歩み出そうとしています。

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