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三浦環さんについて~120年前の卒業生~

現在、NHKの朝の連続テレビ小説「エール」で、柴崎コウさんが演じている「双浦環」は、日本初の世界的オペラ歌手「三浦環」をモデルにしています。三浦環は欧米でのプッチーニの歌劇「蝶々夫人」主演は2000回を超え、「マダム・バタフライ」の代名詞ともなる人物ですが、実は開校して間もない東京女学館の卒業生でもあります。没後に発刊された自伝に、次のような文章を載せています。

…明治三十年、当時東京で、一番ハイカラな女学校であった、虎ノ門の女学校、本当の名前は東京女学館というのですが、この女学校に入りました。お家が近かったせいもありますが、お父さんが進歩的な、そして派手好みだったので、それで東京で一番ハイカラな女学校に入れて下さったのでした。…九月の新学期になって学校に参りましたら、音楽の先生が新しくいらっしゃいました。上野の音楽学校を卒業した杉浦チカ子先生でした。当時はまだお嫁に行かれないで吉沢先生と申し上げていましたが、上野を出たての新しい音楽の先生というので、たちまち私ども生徒の憧れの的となり、吉沢先生、吉沢先生と大変な騒ぎかたでした。その憧れの吉沢先生が私のうたうのをお聴きになって「柴田さんはなんて綺麗な声でしょう。そして音程がしっかりしている。あなたは生れつき音楽の才能を身につけています。あなたは上野の音楽学校に入って勉強なさい。きっと日本で一流の音楽家になれます」と褒めて下さいました。幼稚園の時に植村くに子先生に褒められて以来、褒められることには慣れッ子になっていたし、私の声が美しいことも自分でも自信を持っていましたが、音楽家になろうとは思っていませんでした。けれど吉沢先生にこう褒められたので、私は始めて音楽家になる決心をしました。… 『お蝶夫人』(吉本明光編)

三浦環は1884(明治17)年、公証人の父柴田熊太郎、母柴田トワのもとに長女として生まれました。小学校を経て、1897(明治30)年、東京女学館に入学します。東京女学館は1888(明治21)年に永田町に開校し、2年後に虎ノ門(現在の霞ヶ関3丁目)に移転しており、当時芝区西久保桜川(現在の虎ノ門1丁目)にあった三浦環の自宅からは、350mほどの近所でした。2年生の時には“行状端正、学業優等”として表彰され、『婦女鑑』を賞品として与えられるという内容の賞状が相愛大学図書館に残されています。文中の「上野の音楽学校」は東京音楽学校、現在の東京藝術大学音楽学部です。「杉浦チカ子(チカ)先生」は、東京音楽学校で「荒城の月」の作者滝廉太郎と同級生で1898年に卒業すると、同年9月から授業補助として東京女学館に赴任しました。1900年からは東京音楽学校に戻り、教鞭をとっています。

1900(明治33)年、東京女学館高等専修科を卒業した三浦環は、同年9月東京音楽学校予科に入学。当時としては珍しい自転車に乗り、海老茶色の袴姿で颯爽と通学する姿は評判を集め、見物人が出るほど羨望の的だったようです。この三浦環の自転車通学姿が評判になると、母校東京女学館の生徒も自転車に乗る者が増えたとも言われます。

本校では、三浦環の入学時に提出したと思われる「履歴書」と「在学証書」を所蔵しています。今から120年前の、東京女学館での杉浦チカ先生との出会いが、彼女の日本初の世界的プリマドンナへの道を切り開いたと言えるでしょう。

※杉浦チカの旧姓は高木で、文中の「吉沢」姓については当時の記録がなく不明。(参考 田辺久之『考証三浦環』)
※1枚目は東京音楽学校助教授時代(25歳)。『東洋婦人画報』明治41年7月の巻(東京社 明治41年7月1日発行)より。2枚目は年代不明。本校所蔵ポストカード。